激しく鬱

またやってしまった。
今日、夕方のニュースで小児ガンの子のルポを見て泣いてしまった。
僕は悲劇を見て泣くというのが許せないんですよ。
フィクションであれ、ノンフィクションであれ、悲劇は悲劇です。
人の不幸を見て、自分のカタルシスを得るというのは嫌過ぎる。
出来れば拒否したい。
大抵の場合、悲劇で起きる不幸というのは死。
そして自分は心のバランスを取り戻す。
明らかに釣り合ってない。
向こう側は致命的で、こちら側はどうでもいいこと。
なんとも遣り切れない。


視点を少し変えるだけで、きっともっと良い捉え方が出来るんだろうということは解っている。
でもそういう視点は持ちたくない。
カタルシスということについての知識を持つ以前は、今みたいな考え方をしなかったので憂鬱な気持ちにはならなかったな。
ここで思うのは、知ることは良くないことだということ。
結果的に見れば知らないという状態にあるほうが、楽しく生きていけるように思える。
何も知らずに生きてきた同年代の人を見ていると、僕よりもずっと楽しそうだ*1
というのは他人へ対する過小評価なんだろうな。それとも自己の過大評価か。
きっと僕の知らない大きな悩みを抱えているんだろう。
閑話休題
知るということは、依存症に近いものがある。
もう少し正確に言えば、知るという行為の過程には。
行為の過程で知識が蓄積されていき、結果的には不幸になる。
でもカタルシスには至らない不幸なので、上記の不幸とはバランスは取れない。
どうしたらいいんだろうなぁ。
というのがここ数年のテーマです。

*1:誇張表現。同年代の人と僕とを比べて多少多く知っているというだけ。僕も知らないことのほうが圧倒的に多い